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入社から休職に至るまで~人格の形成期~

2025.10.25

滋賀県守山市のトータルヘルス&ビューティサロン:ココロ・カラダすこやかLAB.です。

前回のブログでは、私が思春期に経験した不登校のことについて述べました。

今回は入社してから休職に至るまでの経緯について、開示可能な範囲でお伝えしたいと思います。

2009年4月。第1志望の会社に入社することができました。リーマンショックの直後で、当時の売上は6,800億円程度だったと思います。今以上に厳しい会社であったため、周囲の友人からは「お前の行こうとしている会社は大丈夫なのか?」と心配されたものでした。私はチャレンジに対するリスクに対してはあまり慎重ではない性格なのでしょう。

「入ってみなければわからない。いやになったらやめればよい」そんな軽い気持ちで入社したのを覚えています。

入社説明会のときから「当社は若くして大きな仕事を任せる会社です!」

「おお、なんかすごそう」

そんな軽い気持ちで入社すると…若手に任せざるを得ないほどの成長スピード&人員不足というのが実態でした。

まずは指示に基づく簡単な仕事から始めて、入社2年目の下期から徐々に難度の高い仕事を任せられるようになりました。これに伴い、失敗も増え、毎日のようにリーダーに叱られる日々。「毎日叱られに職場に行くようでいやだなぁ」とその時は本当に嫌々出社していました。我慢しながら続けていたところ、気づけばそのリーダーから叱られることがなくなったどころか、笑顔で「頑張ったな」と言ってもらえるようになりました。「成長するためには多少の我慢やチャレンジは必要なのだ」と確信した瞬間でした。

今の妻と出会い、2年が経った入社5年目。

「中国工場に開発分室を立ち上げ、現地で開発できる体制を作る」という方針が打ち出されました。「これは、若手枠・修行枠として選出される気がする…」そう感じていたところ、嫌な予感というのは的中するものです。その発表から約1週間後の夕方に当時の開発部長から電話があり、「今何している?ちょっと会議室まで来られる?」とのこと。

会議室には満面の笑みの部長が待っていました。「これは決まったな」胸騒ぎは現実になりました。「とりあえず2年、がんばってきてほしい。」そう言われました。

しかし、私の中では3か年計画だったので、行くからには3年は駐在したいと考えていました。

なんせ出張ですら行ったことのない工場、パスポートも持っていないような男がいきなり海外に住むのです。そこで安易に決断するのが私なのです。

私の考えた3か年計画は次の通りでした。

1年目:工場の仕事に慣れる。現地のキーパーソンと信頼関係を気づく

2年目:がむしゃらに自分が動き、工場にとってプラスになる成果を出す

3年目:現地の社員を育成して、より大きな成果を出す

2年と言われているくせに3か年プランを立てるあたりがもう生意気でしかないですね。

2年目の終わりに、現地の部長に「どうする?残る?帰る?」と聞かれましたが、「もちろん残ります。でもあと1年でキリをつけます」。実際もおおむねこれに従った実績になりました。3年目には利益貢献大賞で過去最高のランクを受賞することもできました(たまには自慢)

帰国後は、最大手のドイツのお客さまの新プロジェクトを対応しました。当時は10機種以上のプロジェクトを抱えており、若手を育成しつつ、自分も成長しないといけないというなかなかハードな日々を過ごしました。それでも充実感はあったので、辞めたいと思うことはありませんでした。

その後は複数のプロジェクトリーダーをまとめるチームリーダーとなり、次には自動車関連で新しく展開された規格(ルール)に対応するための仕組みづくりを任されました。社内に経験者もいない、外部講習を受ける予算もない中、自分で高価な(笑)本を購入し、中には英語の本も読みあさって少しずつ知識を蓄えていきました。

その結果、ある程度計画は出来上がり、チームメンバーの担当・役割が固まったところで、グループ長に昇格しました。一般的な会社でいうところの部長代理/次長といったところでしょう。グループの誰よりも早く出社し、誰よりも遅くまで働いたものです。帰宅すると幼い子どももおり、公私共に一番大変な時期でした。自分では気づかぬうちに疲労とストレスが蓄積していたようで、2025年のある日、朝起きるとまるで金縛りかのように身体が動かないような状態になっていました。なんとか這いつくばって電話を取りに行き、部長に欠勤の連絡を入れました。その日はほぼ寝て過ごしました。トイレに行くにも壁伝いでないと歩けないほどの頭痛・めまい・倦怠感に襲われました。

「何の病気なのだろう」

恐怖で震えました。

翌日には少し症状が緩和したので、スマホのAI診療を3つほど試すと…

「あなたはうつ病の可能性が決めて高いです」

まさか自分が?それが率直な感想でした。早速オンライン診療で診察を受けましたが、うつ病とはすぐに診断されないもので、はじめは「適応障害」と診断されます。環境を変えて1カ月が経過しても症状の緩和・改善が見られず「うつ病」と診断が変わりました。つらくもありましたが、悔しい思いが強かったです。でも「カラダはいうことをきかない。生きているだけマシ」だと考えて治療に専念することにしました。

妻と会話をする時間も増え、毎日通勤しているとできないことも色々経験しました。元気になるためには何でもやる。そう考えるようになりました。そこで出会ったのが耳つぼセラピーであり、のちにカイロプラクティックでした。そのあと、お声がけいただき、デコルテセラピーの資格も取得しました。

日々を一生懸命に生きていました。会社のこと・上司や部下のこと・家族のこと…気づけば自分のことが後回しになっていたことに体調を崩して初めて自身を振り返ることで気が付きました。私がこのような健康・美容のサービスをはじめようと考えたのも、同じような思いをする方をひとりでも減らしたい、すでにお悩みの方のお力になりたい。そいう想いからです。

徐々に「うつ状態になったからこそ出会えた方がいる・考え方が変わった」と思えるようになっていきました。当然つらいこともたくさんありましたが、底に降りたからには上るしかありません。この角度をいかに早く、高く上げるかが勝負だと考えるようになりました。

それぞれの資格を取り、同じような「うつ状態」だけでなく「腰痛、肩こり、姿勢、関節痛、頭痛、不眠(睡眠障害)、ダイエット、美容…」など様々なお悩みを解決するお手伝いができるようになれば良いと考えるようになりました。

私はお医者様ではありません。それでもお客さまのお悩み・おつらいことをしっかり受け止め、解決するためのお手伝いをする自信があります。

長くなりましたが、私はこのような経験・想いをもった人間です。

こんな私にご相談してくださる方がいらっしゃれば、ぜひお悩みを聞かせてください。

どんなに些細なことでもかまいません。お待ちしております。

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